●酋長の行列

1974年(11歳)の時、小学校のブラスバンドのコンサートの実況録音盤。
当時、顧問の音楽の先生が自主制作を発注してくれた。
モノラル録音のEPで33回転。片面のみで裏は鏡面。制作費は1枚1000円ぐらい。
まだカセットテープレコーダーが普及したばかりという時代だった。
今、毎年夏のワークショップでDVD-Rを焼いてあげているが、
当時も先生らは時間外にいろいろな手間をかけてくれていたのだ。

私は放送部で、ブラスバンドの正式メンバーではなかったがザポートで臨時参加。
楽器はシンバル。曲はイッポリトフ・イワーノフ「酋長の行列」。
当時、音楽の先生から、シンバルは会場で雑音が響く事、落とすと足の爪を
割ってしまう事、その2点を最初に注意されたのを今でも覚えている。
その注意事項は、仕掛付上映の注意点と同じであった。






●海に出る若者達

中学生まで自分の映画にはクラシック曲を付けていたが、1970年代後半
エグザードシステムの前身で、初の庶民向けポリフォニックキーボード
「ポータサウンド」が発売。音色は6音ぐらいだったが、うちビブラフォンは
ドビュッシー=冨田編「月の光」で使われたモーグの音に偶然酷似していて感激した。
以降、テープレコーダーを2台つなげて多重録音する方式「ピンポン」を多用して
自分で曲を作り始めた。まだパソコンもMTRソフトも無かった時代。

上のスコアは、18歳の頃のもの。
ピンポンは内臓マイクを使用するため、
6段(6トラック)が限界だった。






●深夜の琴

上京後、同じピンポンをやっていた同級生がいた。
毎週お互い曲を作り合い一緒に演奏・録音した。
ピンポンをする事に音が劣化するが、
2人で一度に演奏・録音すると劣化の回数は減る。
その友人は、途中からミディ・プログラムを購入。今で言う「打ち込み」。
プログラミング方式は、さらに音の劣化が減少するので、
私は良くスコアだけを渡して打ち込んでもらった。
ミディ・プログラミングは、ステップだと機械的な演奏になるので
リアルタイムが良い。私は打ち込むのが面倒で途中で挫折したが
複雑なリズムやパッセージは機械演奏に頼る事がある。

上のスコアは「深夜の琴」(1981年・19歳)という曲で、
自分の映画の中で群馬の一地域を解説するシーンに
使用したが、実際に映画で流れているのは、
友人がプログラムして演奏したバージョン。

今ではMTRソフトの普及などによって、シューノイズの蓄積を除き、
基本的に大きな音の劣化は無くなった。
しかし、ピンポンによる音の劣化や音程やスピードの狂いや変容が
魅力である事に気付いたのが近年になってからであった。






●宇宙河童の襲来

上のスコアは、1983年(21歳)、専門学校の卒業制作につけた曲。
卒業後、ラスト5分を追加し、一般公開する際(1985年)、別の曲に差し替えた。

この頃、コルグのパッチシステムによるモノフォニック簡易シンセサイザー
MS-10を購入した。高校生の頃、まわりでイエローマジックの人気が高かったが、
私は一貫して冨田勲氏のクラッシック派だった。
冨田氏が使っていたのがパッチワークシステムで、何よりも
コードを繋ぎ変えに憧れた。シンセサイザーの電気理論は
全く勉強せず、適当にコードを組み換え、感覚で音色を決めていた。






●眠れない夜

1983年から5年ほど、専門学校の同級生らのバンド活動に加わっていた。
あまり練習するのが好きではなかったので、ライブで弾いたのは
わずか2回だけで自然脱退していった。
ただし友人らは頑張って、その後、渋谷アピアで素晴しい演奏を披露した。
正式メンバーではなかったが、ボーカルのM氏の作る曲が好きで、
キーボードのアレンジだけを良くやった。上はその中の一つ。
しかし演奏があまり上手くなく、練習する事自体好きでなかったので
機械によるプログラミングに取って代わられた。



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